2012/06/17

責任を愛と言い換えてみる

大人には責任がともなうことが多いですね。いや、というよりも、日常のほとんどがそうではないでしょうか?親なら、子どもに対して。働く人なら、部下や自分の仕事に対して。私のように動物を飼っていたら、飼い主としてペットに対して。

「責任があるから、ちゃんとしなくっちゃ。」
「飼い主の責任だから、動物病院へ連れて行かないと。」
「親の責任なんだから、子どものしつけをしっかりしないと。」
こんな言葉はなじみやすいのではないかと思います。そうして、人はもちろん、自分の人生に対して、全責任があります。

この、「責任」という言葉を「愛」という言葉に言い換えてみたら、どうなるでしょうか。

「愛があるから、ちゃんとしなくっちゃ。」って、文章がしっくりマッチしてない気がしませんか。「愛があるから、ちゃんとしよう。」このほうが、しっくりくる気がします。(まあ、個人的にですが)

「飼い主の愛だから、動物病院へ連れて行かないと。」
「飼い主の愛だから、動物病院へ連れて行こう。」

「親の愛だから、子どものしつけをしっかりしないと。」
「親の愛だから、子どものしつけをしっかりしよう。」

どうも、「責任」という言葉は人にプレッシャーを感じさせやすいように思うのは、私だけでしょうか。日本人は特に真面目な性格なので、そう思いやすいのかもしれません。

責任があるから「やらなければならない」というスタンスになりやすいことって、仕事では多々あるような気がします。でも、これが「愛」という言葉に置き換えられたなら、仕事っぽくは感じないかもしれません。仕事なのに、ちょっと不真面目に聞こえるというか、そんな軽くていいの?みたいな。(笑)

仕事を軽くこなしては、いけないでしょうか。
子どものしつけを、軽くこなしてはいけないでしょうか。
動物病院へ行くことを、軽くこなしてはいけないでしょうか。
重くある必要は、あるでしょうか。

責任を愛と言い換えてみると、今まで重く感じていたものが、軽く感じられるかもしれません。今まで大変だと感じられていたものが、簡単に感じられるかもしれません。今まで、できないと思っていたことが、できるようになるかもしれません。

責任って、愛があるから、取ろうとするのかもしれません・・・。




2012/06/15

のら犬と私(5)

何とも居心地の悪い目覚めでした。犬が逃げ去った翌朝、のろのろと起きだして、愛犬の散歩の準備を始めました。そうだ、散歩しながら探してみよう。まだ、あきらめきれませんでした。

きょろきょろしながら、愛犬に引っ張られるままのコースをよたよた歩きながら探しました。似た犬はいないかな?お腹すかせていないかな?いったい、どこに行ったんだろう?

結局、朝の散歩でも、夕方の散歩でも、あの犬は見つかりませんでした。「はあ~。」ため息ばかりがでます。数日間、こんな散歩が続きました。

ある日の夕方、愛犬を連れて歩いていると、ご近所さんが声をかけてきました。「犬は元気?」「ええ、おかげさまで。結構、食べるようになったんですよ。」「あら、そう。やっぱり、お腹が空いてたんでしょうねえ。だって、細い足してたものねえ。」「?」。話がかみ合わないことに気づいて、少し沈黙していると「ほら、あの犬よ。その子(私の愛犬)じゃなくて、この前、保護したって言ってた、あの犬よ。」ああ、痛いこと聞かれちゃった。「ああ、あの犬・・・あの犬ねえ、逃げちゃったのよ。捕まえた日の夜にねえ。」そして、事の次第を話したのでした。ご近所さんは「あらあ、それはボケてたのかもねえ。」と言って「まあ、しょうがないわよ。もう、あなた、その子がいるからいいじゃないの。」となぐさめて(?)くれました。

そう。愛犬は私にとって人生の道のりを一緒に歩いてくれる、大事な大事な友人であり、相棒であり、先生でもあります。この子を幸せにすることは、私にとって大きな意味があります。でも・・・。あの犬と納得できない別れ方をしたことが、小さく鋭いとげのように、私の心に残っていました。

人間はなぜ罪悪感を持っているのでしょうか。自分を責める、この小さいけれど、しつこい声。子どもの頃に、大人が自分(個人)の価値観が正しいと信じて、子どもに投げかけてきた、命令口調の声。
「どうして、逃がしちゃったの?」
「だめじゃないの、ちゃんと気を付けていないと。」
「あなたのせいよ。どう責任とるの?」
「だからダメなのよ。しっかりしないと!」
「もう、どうしようもないわね。あきらめるしかないじゃない。」
「泣いたって駄目よ。まったく、しょうがないわね。」
こんな声が私の心に響いては消え、響いては消えてゆきました。

「自分にはどうしようもないことが、人生には起こる。」これが、私の中の先生の声でした。そう、子どもにも、大人にも、自分ではどうしようもない出来事が、確かに人生には起こるのです。
電車の遅延。
飛行機で出る急病人。
会社の方針転換。
そして、誰かの死。
これらからいつも学ぶのは、「自分には力の及ばないことが、ある。」ということです。自分には出来ないことがある。そう認めるには勇気がいります。でも、それが現実です。ジブンニハ、デキナイコトガアル。だから、できなかったこと、できないことを責める必要はないのです。ただ、できなかった、と認めるだけで十分なのだ。そう、思うに至りました。

今でも「あのときは、残念だったなあ。」と思い出すことがあります。けれど、あの犬にとっての最善は、やはり、ここから逃げ出すことだったのでしょう。




2012/06/10

循環すること

朝、パンを食べるとコーヒーを飲みたくなります。(コーヒーのアロマには間違いなく、ホッとする何かが含まれていると思います、笑。)でも、ご飯だとお茶が飲みたくなります。食事と飲み物のマリアージュは、よりおいしく食事するために、私にとっては大事なことです。

先日の朝、インスタントコーヒーが残り少なくなっているのに気づきました。「ああ、そろそろ買っておかないとなあ。」と思って、ふと、「ん?」と思いました。

私は庭にさまざまなハーブを植えているのですが、ここ数週間、それらを収穫して、ドライハーブティーを作っています。カモミールの信じられないくらい繊細で美しい香りやペパーミントのさわやかな爽快感など、既製品とはまた違った、優しくマイルドな香りとのど越しを味わうことができます。
多少の肥料(今は100円ショップでも手に入ります。)代や水道料金はかかるものの、収穫量から考えると、お財布にも優しいのではないでしょうか。それに飲み終わった茶葉は(もちろんオーガニックなので)他の植物の肥料として与える事ができます。

空になりつつあるコーヒーのビンを見ながら、ハーブを思い出し、「コーヒーは自分で作れないんだよなあ・・・。」と気づいたわけです。ビンが空になれば、また買うしかない。また空になったら、また買うしかない。

私は最近、ホームページ・ソフトを使用してのサイト更新をやめました。(今日までは古いサイトもご覧いただけます。)ちょうど、契約している会社から利用に関する更新期限と新規入金の期限についてお知らせが届いたところでした。サイトを更新したり、写真を変更したりするにも、もっとスピーディでオンタイムな方法がないかなあ。毎回、更新料金がかかるけれど、これがなくなる方法はないかなあ、と思い始めていたところでした。

いろいろ検討した結果、以前、アカウントを作成していたタンブラー(こちらです)をもっと利用することにしました。これは投稿される写真を自分のサイトにスクラップを作るようにたくさん表示することができるSNSです。気分によってジャンルを選び、投稿されたたくさんの写真を見ていると、とても楽しいのです。それに、自分でリブログすると、好きな写真がサイトのホームに表示されます。そう、オンタイムで自分の好きなものを読者の方にもご覧いただけるわけです。

ハーブやSNSの写真のように、どんどん循環させる。これらは小さな例ですが、地域や環境、地球という大きな基盤を元に考えた場合、もっとたくさんのものや人に、生かせるのではないでしょうか。ネイティブインディアンの言い伝えで、「7世代先までのことを考えて行動しよう」というのがあるそうです。

20代、30代の自殺が多い、いまの日本。私たち大人が、循環する社会を作っていくのは、とても大事なことであると思っています。


のら犬と私(4)

それまで静かに寝ていたメス犬は、日が落ちて、暗くなってくると落ち着かなくなりました。ワンワン!と吠えだして、ベランダを行ったり来たりするようになりました。

「どうしたんだろう?」と様子を見に行くと、少し遠くを見つめながら、すでに目的地へと想いを馳せているようでした。彼女の中では行先が決まっていたのかもしれません。自分の居場所はここではない、と犬が強く感じているような印象を受けました。それと同時に、昼からずっと寝ていて、そろそろトイレの時間かもしれない、とも思いました。庭を見渡してみても、用を足した形跡はありません。とりあえず、近所に散歩へ連れて行こう、そう思い立ちました。

散歩用の、太めのリードを持って、係留用の金属製コードを取り外した、その瞬間でした。犬があっという間に逃げ出してしまったのです。あまりに突然で、声もでませんでした。あわてて追いかけると、すでに近所のアパートのごみ置き場で匂いをかいでいました。しかし、そこでも彼女の知っている匂いはしなかったのでしょう。今度は逆方向へ向かって、すごい速さで走っていきました。あの、枯れ枝のような細い足で、あんなに早く走るなんて!犬が走り去った場所へ到着したときには、もう、暗闇にまぎれて見えなくなってしまっていました。

「どうしよう!」。これが最初に私の頭をよぎった言葉でした。どうしよう。どうしよう。せっかくつかまえたのに。保健所につかまったら、どうしよう。だいじょうぶかな?車にひかれたりしないだろうか?さんざん心配していると、ふと、「もしかして、これで良かったの?」という疑問が浮かびました。

つかまえたのは、私のエゴだよな。私が安心しても、あの犬にとっては安心できなかったんだな。
もしかしたら、あの犬は痴呆症が入っていたのかな?動物病院の先生が言ってたっけ。
どこか、目的地がはっきりあったんだろうな。例えそれが、痴呆症によって思い起こされる場所だったとしても、それは、彼女にとって、本当に行く必要がある場所だったのだ。

私は不安と、軽い絶望と、がっかりした気持ちでいっぱいでした。ああ、私に出来ることはなかったのだろうか。余計なことをしてしまったのかな。力になりたかったのに。

対どうぶつの場合、何が相手にとって幸せか、ということを熟慮することは非常に大切です。動物を保護するときには、「可哀想に。」という、優しい気持ちだけでは終われないからです。保護しようと試みる人間が「真の強さ」を発揮するときに、お互いが本当に必要なものを提供することができます。

私は犬が走り去った方角をぼうっと、つったったまま見つめていました。




2012/06/02

のら犬と私(3)

暑い日差しの中、しかもお昼時という一番気温が上がる時間帯に、2件目の動物病院めざして1人と1匹は歩き続けました。午後1時までに到着しないと、動物病院が休憩時間に入ってしまいます。枯れ枝のような足をしている犬でしたが、早足で歩いてくれました。途中、日陰に入って、水を与えるとたくさん飲みました。

動物病院のドアを開けると先客がいて、少し待ちましたが、すぐに診てくれました。診察台は約1mくらいの高さなのですが、上に抱え上げようとすると犬は先生に吠えて、噛みつこうとしました。私はちょっと驚きました。どうしてこんなに、人によって態度が変わるんだろう?犬とは不思議な生き物です。先生は看護師さんに手伝ってもらって、犬の口を包帯で巻き、噛まれないようにしてから検査を始めました。

わかったことは、フィラリアは陰性であること、だいぶ年をとっていること、痴呆症があるかもしれないこと、首輪の状態を見る限り、あまり良い環境で飼われてはいなかったであろうこと、そして首輪の裏側にも住所や電話番号、名前は書かれていないということでした。こういう時、連絡先さえわかればと本当に残念です。

財布を持たないまま来てしまったことを先生にお話しすると、「いつでもいいですよ。」と言ってくださいました。愛犬がお世話になっているので、うちの住所や電話番号もカルテでわかります。信用してくださる先生たちに感謝しました。ご参考までに、健康診断や血液検査(フィラリア検査)で約5,000円かかりました。

再び暑い日差しにさらされながら、1軒目の病院に戻りました。そこで、私の自転車をピックアップして、片手に犬のリード、もう片方の手で自転車を押しながら帰宅しました。ああ、何て遠い道のりなんだろう。とにかく帰って、たっぷりのごはんと水をあげよう。ベランダにつないで、しばらく様子を見よう。そう考えながら、ひたすら歩きました。

家につくと、早速、ごはんを準備しました。犬は夢中で食べ、たっぷりと水分補給をすると、もみじとブロック塀の陰に横になって、昼寝を始めました。ようやく安心したのでしょう。犬の下にはセルフ・ヒールという名のハーブが絨毯のように茂っていました。

ぐっすり寝ていた犬に、変化が現れたのは、夜暗くなってからでした。



2012/05/28

分かち合うこと

愛犬とする朝の散歩ですが、気温が上がってくると同時に、だんだんと出発時間が早くなってきました。そんな朝の散歩が、思わぬハッピーをもたらしてくれることがあります。

ある朝、通り沿いの家から朝ごはん中らしき音が聞こえてきました。カチャ、カチャ、と箸と茶碗が当たる音、食べながら話しているような、少しくぐもった声、そして家族の大きな笑い声…。何て幸せな食卓なんだろう、と思わず笑顔になりました。

同じものを一緒に食べるということは、同じ細胞が身体の中にできるということ。これが家族の絆を強くするのでしょうか。(夫婦はだんだん似てくる、と言われたりしますよね。)


またある朝、神社の境内で一休みしていると、庭掃除をしていたおじさんが近づいてきました。私が愛犬に頬を寄せているのを見て、何をしているのかと思って近づいてきたそうです。

「あー、可愛かもんね!」おじさんはそう言うと、自分も犬を2匹飼っているのだといいました。「家の中で飼っとるけん、毛だらけになるたい!」嬉しそうな笑顔でそう言いました。そう、犬好きな人にとっては、布団が毛だらけになっても、たいした問題ではないのです。「旅行やら行かれんやろ?もう、可哀そかけんねー。」一度、ペットホテルに預けて留守にしたそうですが、再会した時の喜びようがあまりにもすごかったので、もう置いてはいけない、と思ったそうです。


犬を散歩させていると、道の向こうからやはり犬がやってきて、ちょっと気を配ることがあります。特に、怖がりの犬、同性の犬、よく吠える犬などの飼い主は気を遣います。空き地があれば、とりあえずそこへ行って相手の犬が通り過ぎるのを待ったり、横道に入ったり、通りを渡ったりして「難」を事前回避します。

そのときも、50mほど離れたところに犬を連れた女性が見えました。「オスかな、メスかな?」初対面の同性同士でも、仲良くなることもあるので、いちがいに相性はわかりません。でも、その女性が大きな空き地に入ってゆっくり回っているのを見ました。

「奥さん、すみませーん、お待たせしましたー!」私はこういう時、必ずお礼を言って通り過ぎるようにしています。例え、犬同士が何もなかったとしても、ああして待っていてくれると、安心して歩けます。


近所に、昔は流行ったであろう、商店街があります。今は空き店舗ばかりで、お年寄りが少し、店を開いています。

魚屋さんの前を通ったら、おじさんが通りを渡って話しかけてきました。「散歩行ってきたねー?」食べ物屋さんの前はできるだけ避けて歩くようにしています。「そうなんですー。だんだん、朝の散歩時間が早くなってきて・・・。」「うちにも2匹おってのー、朝5時に散歩しよる!」

ん・・・?よく見ると、神社の掃除をしていたおじさんでした!あら、魚屋さんだったのね?!おじさんは境内で会ったときと同じように、自分も犬が好きなこと、布団が毛だらけになること、(店舗2階のご自宅らしきベランダに布団が干されていて、「ほら!」とニコニコしながら指をさして教えてました。)旅行にはいけないことを話してくれました。


ここに出てきた人たちは、私と直接会う、会わないは関係なく、私と小さな幸せを分かち合ってくれました。それは、笑い声だったり、笑顔だったり、会釈だったり、心からの素直な言葉だったりします。モノでなくても、お金でなくても、分かち合えるものはたくさんあります。そういうものを大切にしている人とは、また会いたくなります・・・。



2012/05/26

のら犬と私(2)

動物病院では改めて、のら犬保護の厳しさを知ることになりました。受付の方に話して、どなたか探している方がいたらいけないと思って・・・とお話しすると、「さあ・・・。」というお返事。よくよく聞くと、一時保護等はしておらず、連れてきた人が飼い主になるなら健康状態を診察します、ということでした。代金をもらえないのなら、診ることはできません、ということです。(当たり前ですが)うちにはすでに犬がいるし、貸家だから現実的には無理です、とお話しすると、受付の方は、迷子掲示板に乗せるにしても連絡先が必要となるので、やはり、私の電話番号が必要になるとのことでした。

結局、のら犬や迷子犬を保護しても、そこから先、なのです。動物管理センター(地域によっては動物愛護センター、動物保護センターなどとも呼ばれるようです。要するに、保健所の一部です。)へ連れて行けば、3日間のみ保護され、あとは二酸化炭素ガスで殺処分です。地域によって、保護期間に違いはあるものの、法律上は3日間となっているため、文句は言えません。ボランティアセンターへ連れて行けばいいかもしれません。けれど、もしかしたら飼い主が探しているかもしれないことが気にかかります。それに、ボランティアセンターがどこにあって、どういう人が運営しているのかという情報を知らないまま、連れて行くのにも抵抗がありました。自分では飼えない、動物管理センターは避けたい、ボランティアセンターは余裕があるのかどうかわからない。困った私は、とりあえず、もう1軒の動物病院へ連れていく事にしました。

女の子たちは病院の外で待っていたのですが、結果を聞いて残念そうな顔になりました。「ここにはいられないから、別の動物病院へ行くね。そこは歩いていくと、とても遠いから、ここから帰ったほうがいいよ。」すると、一人の女の子が「だいじょうぶ!ここからどのくらい?」自分はまだまだ元気だから、まだ歩ける!と言いました。もう一人の女の子は心細そうな顔になって、迷っている感じでした。明らかに二人の間で意見が異なることを見てとった私は言いました。「ここから、40分くらいは歩くかも。すっごく遠いから、ここでやめたほうがいいよ。ほんとに、お昼ご飯食べにおうちに帰りな。ね?お母さんが心配するといけないから。」すると元気な女の子がいいました。「心配しないもん。うちね、親ね、離婚したからお母さんいないもん。おばあちゃんだけ。だから、誰も心配しない!」「そう・・・」そう言って、もう一人の女の子の顔を見ました。彼女は子ども用の携帯電話を持っていて、「お母さんに聞いてみる。」と言いました。電話の向こうでお母さんは、早く帰ってらっしゃい、と言ったそうです。なぜなら、彼女がお母さんに言ったのは「ママ?あのねえ、犬がおるよ。すごくね、やせとる。」だけだったからです。

子どもは話すのに時間がかかります。それは大人のように語彙がないからでもあるし、いま、自分が置かれている状況を大人のように全体から把握することが難しいからでもあります。彼女のお母さんが早く帰ってらっしゃい、と言ったことは当然で、犬よりも早く帰ってきて、お昼ご飯を食べなさい、ということでしょう。

さて、帰りたい女の子と家に帰っても面白くない女の子。困りました。私は、帰りたくない女の子に歩きながら話しかけました。「お腹すいてない?」「うん!平気。まだまだ歩ける!」途中で投げ出すことはいけないことのように感じているようでした。責任感の強い子なのでしょう。「あのねえ、」彼女の肩を片手で一瞬抱いて言いました。「お母さんはおらんでもね、おばあちゃんが心配してると思うよ。おばあちゃんはね、言わんだけよ。」小学校低学年の彼女が、自分を心配してくれる人は誰もいない、と言ったことに、私の心はチクチクととげで刺されたようになっていました。自分のことを誰も心配なんかしてくれない、とこんな幼くして信じてしまうなんて。お父さんが離婚したのはあなたのせいじゃない、心配していないから離婚したわけじゃないんだよ。「えー、でもね、おばあちゃんね・・・・。」

自分の事を心配してもらうためには、自分のことを好きになってもらわなければならない。
自分の事を好きになってもらうには、一生懸命頑張らなくてはいけない。
だから、途中でやめるなんてダメで、とことん、頑張らなくっちゃ。

彼女の中の小さな先生が、こう語っているようでした。彼女は自分の自転車を押しながら一緒に歩いてきてくれたのですが、結局、「自転車をここに置きっぱなしで行って、(その間に自転車を)取られたら困るんじゃない?」と言った私の一言に思いとどまりました。福岡県は自転車の盗難、乗り捨てが全国ワースト10に入ります。冗談ではなく、本当に盗難が多いのです。

元気な彼女を説得している間に、携帯電話の彼女は「お腹が痛い。」としゃがみこんでしまいました。これ以上遠くへ行きたくないという思いを消化しきれなかったのか、朝ごはんに何か悪いものを食べてしまったのかはわかりません。「だいじょうぶ?どんな風に痛い?」と顔を覗き込みました。

「じゃあ、連絡します!電話していいですか?」と元気な彼女。友だちを気遣って、さらに自転車のことで行きたいという思いが吹っ切れたのでしょう。「うん、いいよ。じゃあ、これね、私の連絡先。」と持っていた名刺を渡しました。「電話がかかってきたときにわかるように、お名前だけ聞いておこうかな?」と私が言うと、彼女は「私、メモ持ってます。ペンもあります!」と下げていたポシェットから可愛らしいピンク色のメモを取り出して、自分と友達の名前を書いてくれました。「どうもありがとう。助かったあ、ここまで一緒に来てくれて。ありがとうね。」お礼を言ったのは、自分は本当に他人の役に立った、と感じてほしかったのです。あなたは心配される価値があるんだよ。

お腹の痛かった女の子も、私たちのやりとりを聞いて安心したのか、ようやく立ち上がりました。「気を付けて帰るんだよ。帰り方、わかる?」と聞くとうなづきました。二人は、暑い初夏の日差しに照らされて、だんだん小さくなりました。犬を見ると、暑そうにハアハア言って、「まだ?」と文句を言いたそうな顔をしていました。







本日のメッセージ

【自己紹介】 中村久美恵 BBSH2011年卒業BHSプラクティショナー💖動物が大好きなエネルギーヒーラーです💛犬2匹猫30匹をお看取りした経験から、ペットロスのヒーリングサポートをしています。こんにちは、中村久美恵です^^ 今日もあなたが目覚めるメッセージ♡お届けします。 ...