2012/04/11

愛すること

愛すること。
愛されること。
どちらが好きですか?

どちらも好き?え、どちらも嫌い?
困ったなあ。
今日は愛することについて書きます。

人は人なしには生きていけません。かといって、すべての人を愛せるわけではありません。
どうしたって嫌いな人や憎い人たちが出てきます。
そう、あなたの人生には必ず嫌な人達が登場するのです。

愛することは愛されることでもあります。
愛する人のエネルギーは相手によって受け入れられ、相手から愛してもらえます。
反対もありき。
嫌いな人には「近寄らないで!」のエネルギーが相手に伝わり、相手からも嫌われます。

愛することは難しくはありません。
子どもを可愛がるのもそう。
ペットを可愛いがるのもそう。
ゴミを拾うこともそう。
花壇の植物に話かけることもそう。
近所の人へ笑顔で挨拶することもそう。
意外と簡単なのです。

そう、簡単なところに難点があります。
簡単だから、見逃してしまうのです。

優しさは愛することとつながっています。
一人一人の中に、ちゃんとあります。
優しさが一滴ずつ集まると、水たまりになって、やがて泉になります。
あふれ出てくる優しさは、尽きることのない泉であると同時に、他人から見ると内面から表現されるものになります。

何もかもを愛することが良い、と言いたいのではありません。
○○が良い、悪い、という話には興味ありません。
愛せないものや人がいるのは、ごく普通のこと。
大事なのは「なぜ、愛せないのか?」ということです。

なぜ、愛せないのか?
今はダメでも、将来は愛せるのか?
一生無理だと思うのか?
それはなぜなのか?

誰だって、愛されたいのです。
人も、どうぶつも。モノだって、大事に扱ってもらえたら、長い期間がんばってくれます。
愛されているんだ、という実感がほしいのは人もどうぶつも同じです。

愛すると、大事にします。大切にするのです。
これはらせんのように次から次へと伝わっていきます。
愛された人は愛するようになるし、愛されなかった人はどうやって愛すればよいのかわかりません。

愛さなかった人を責めることはできません。なぜなら、愛さない人は愛されなかった可能性がとても高いのです。きっと、愛さない人はどうやって愛すればよいのかわからなかった人に育てられたのかもしれません。

簡単です。
誰かと手をつなぐこと。
誰かの肩に手を置いて、一緒にいてあげること。
ただ、黙ってそばにいること。
目があったら、少し、微笑んでみること。

あなたに出来ることを試してみませんか?きっと、美しいエネルギーが波紋を描きながら、相手を包みこむのを感じることでしょう。

2012/04/10

生きること

生きること。
これも大切なことです。

生きるとは、当たり前です。
でも、当たり前ではないのです。

命とは不思議なもので、自分では意識しなくても、いま、生きています。
もちろん、呼吸とか心臓とかそういうことではなくて。

深呼吸をしてみると、細胞の隅々に余裕が送り込まれます。
だから、心に余裕がでてきます。

スゥーッ、ハァーッ。
もう一度。
スゥーッ、ハァーッ。
・・・・いかがですか?パンパンでよくわからない?
そういう人は3回続けて深呼吸してみるといいですよ。
スゥーッ、ハァーッ。

私たちが生きているのは、この世で何かを成し遂げるためです。
例え、それが何かわからなくても。
例え、それに自信がなくても。
例え、それが自分に向いているのかどうかわからなくても。
生きていなければ、成し遂げることができません。

そうです。生きるというのは、あなたの使命を成し遂げるために必要なことなのです。

生きる意味がわからなくても。
何が使命かわからなくても。

あなたが生きているだけで、今日もこの世界は変わっていくのです。
変わることを拒否しながら、変わりたいと願う世界の人々。
何が本当なのかわからなくて、悩んでいる人々。
みんな、あなたのおかげで変われるのです。

あなたが今日、いま、生きているという事実。
それは決して、当たり前のことではないのです。

すべての細胞はあなたを「生かすため」に働き続けます。
寿命が尽きる、その日まで。
そう、「生かすために」、働き続けるのです。

生きることは尊いことです。
「こんな人生、生きていたってつまらない!」。
そう思うなら、聞いてごらんなさい、あなたの細胞に。

「私はもう、生きていてもつまらない。どうしたらいい?」

返事がない?おかしいですね。
もう一度、聞いてみましょう。

「私は、生きていてもつまらないんだ。君たちはどう?」
『・・・』

そう、返事はないのです。
なぜなら、細胞たちはあなた自身だから。
同じように感じているから。
だから、返事はないのです。

しかし、あなたと決定的に違うことがあります。
それは「まだ、あきらめていない」ということです。
最期の瞬間まで、あきらめることはないのです。

生きること。
それは、傷や痛みを宝石に変えていく長い道のりです。

2012/04/09

自分を大切にする

自分を大切にする。
あなたにとって、自分を大切にするって、どういうことですか?

 
わがままとは異なります。明らかに、違います。
過保護でもありません。ベクトルが違います。

 
自分を大切にする。

 
  1. 本当のことを、話す。恐怖から、理由を作らない。
  2. 素直になる。寒いときには我慢せず、セーターを着る。
  3. これだけはゆずれない!ということのために立ち上がる。勝ち負けではなく。
  4. 痛みを認める。そこに在る、ということを確かに認める。
  5. 自己価値を認める。生きていてもいい、必ず誰かの役に立つはずだと信じる。
  6. 忍耐強く、待つ。決してあきらめずに、続けていく。
  7. 時には泣く。誰かの胸を借りて。ぬいぐるみだっていい。
  8. 笑う。楽しい時の自分は周りも幸せにする。笑顔はタダ。
  9. 歌う、踊る。でたらめでいい。身体と心をウキウキさせる。
  10. 遠くを見て、決意を新たにする。今までやってきたことでも、改めて。
  11. 本当に、やりたいことをする。嫌なことに時間を費やすのは止めて、行動しよう。

 
自分を大切にする。
小さなことから始めませんか?
出来ることから。
1日1個。
それでも、ゼロじゃなく、前進しています。

 
足を一歩前に踏み出す時、そこから道が出来ていきます。

 

2012/03/29

モコちゃんと私(3)

小さな小さなモコちゃんは、本当にお年寄りでした。歯がほとんどなかったのですが、食欲はあったので、猫用のレトルト(シーチキンがさらに柔らかくなって、細かくほぐされているようなもの)を一生懸命食べて(飲んで?)いました。「誰も取らないから、ゆっくりお食べ。」と言っても、必死に食べていました。

目もあまり見えてなかったかもしれませんが、動きは敏捷(びんしょう)でした。膝の上にのってくると、服を通して爪がチクッとすることがありましたが、なかなか切らせてくれず、ついに切らないままでした。一度も爪を切られたことがないから、何をされるかわからず、怖かったのでしょうね。

そんな甘えん坊なモコちゃんとのお別れは、突然やってきました。

私はその頃、BBSHという学校でハンズ・オン・ヒーリングを習っていて、各月で1週間ずつ、家を空けていました。その日は家に帰る日で、待合ロビーへ向かって歩いているところに携帯がなりました。電話は母親からで、モコちゃんが具合が悪くて、多分駄目だろう、という電話でした。いったい、どうして、そんなことが?と詳しく話を聞きたいものの、せめて自分が到着するまで待ってほしい、そう願って母親にいくつかのエッセンシャルオイルを使ってみるよう勧めてみました。

母親は私と話したあと、オイルを実際に使ってくれました。その時のことを、こう話してくれました。
「不思議だったわ。ラベンダーのにおいを嗅いだら、目をつぶっていたモコちゃんが、パッと目を開けたのよ。ずっと寝てたのに。驚いたわ。」
ラベンダーは旅立つ前の人に使うと、本当に安らかな気持ちになれる、と聞いたことがあります。猫のモコちゃんが実際どうだったのか、知る由もありませんが・・・。モコちゃんは前日、日当たりが良い場所で日向ぼっこをするために外へ出ていたのですが、どうやら寒さがたたったようでした。2月でした。

家について、小さな箱に入ったモコちゃんと対面しました。白いティッシュをふわふわと回りに入れてもらって、モコちゃんは白いお花に囲まれているようでした。「あなたに会いたかったでしょうけどね。。。」と母親が言いました。既に手足は固くなっていました。私は大きな声でわんわん泣きました。

もっと可愛がってやればよかった。
もっと早くに家の中へ入れてあげればよかった。
もっと、もっと・・・と自分を責める言葉が沢山でてきました。
こうなる前に、もっと。

動物が好きな方なら、ペットロスの辛さは想像がつくと思います。私はこのとき、BBSHの卒論で自分が「ペットロス」について書くとは夢にも思っていませんでした。どんなに小さな生き物でも、その短い人生を一生懸命に生きます。他の動物に食べられたり、怪我をさせられたりすることはあるかもしれませんが、人間のように自殺したり、わざと相手を傷つけたりすることはありません。

「どうせ猫でしょ」、「所詮、犬だから」などと言わずに、小さな命を大事に大事にしてあげてください。小さくても、尊い命なのです。


2012/03/11

モコちゃんと私(2)

ショレショレのボロぞうきんみたいになっているモコちゃんは黙って抱えられ、そのままお風呂場へ直行しました。風邪をひかないようにと母が手早く洗うかたわら、私はタオルをたくさん準備しました。

タオルで包まれたモコちゃんはストーブの前で身体を拭かれました。ちいさくて、あばら骨がよくわかりました。

フカフカの毛皮に戻ったモコちゃんは、それでも小さくなっていました。「やっぱり、年をとったんだね~」と母親と話しました。毛皮に艶はなくなって、量も減って、ふたまわりくらい小さくなった感じでした。


モコちゃんは若い時、それはそれは美しいチンチラ三毛猫でした。長毛種特有のふわふわした長い毛皮で、本当のからだの大きさより何倍も大きく見えました。オス猫相手でも喧嘩をして、ほかの猫をよせつけませんでした。

モコちゃんは野良猫のお母さんから生まれました。弟がいました。お母さんはモコちゃんが小さい頃、交通事故で死んでしまいました。弟とはしばらく仲良くしていたのですが、その弟も、残念ながら交通事故にあってしまいました。モコちゃんは天蓋孤独でした。だからこそ、強気に生きてきたのだと思います。

モコちゃんは、家の中で過ごすようになって以来、よく私の後をひっつきまいつきしていました。トイレに立とうとしたときでさえ、「ミャーー(どこへ行くの?)」と抱っこをせがみ、「トイレだから、すぐ戻るから。」と言っても離れません。ついには抱っこしたままトイレに行くこともありました。あのころのモコちゃんは人間との生活や新しい家になじむという時期で、とても不安だったのだろうと思います。

そうこうするうちに、家族にも黙って抱っこされるようになりました。それでも、私が座っているとダイニングテーブルでも、ソファでも、畳の上でも、ひざの上に乗ろうとすぐにやってきました。人間に心を許すまでにはなかなか時間がかかるようでした。

人間もそうですが、本当は誰かと一緒に過ごしたい、と思ってもなかなか勇気がなくて言い出せなかったり、恥ずかしくて表現できなかったりします。それに、相手を心から信用できなければ、わざわざ傷つきたくないから、あえて一人でいることを選んでしまうことだってあるでしょう。モコちゃんはまさにそうだったと思います。そんな時に、私が「一人で頑張らなくてもいいんだよ。」と声をかけたのでしょう。


2012/02/25

モコちゃんと私(1)

気が付けば、来週から3月ですか!早いですね~。。。

今回は年寄り猫の「モコちゃん」のお話しをしたいと思います。

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モコちゃんはメス猫でした。三毛猫模様の長毛種でチンチラのようでした。(定かではありませんが・・・)若い時から気位が高く、他の猫はいっさい寄せ付けませんでした。ケンカも強く、一人で生きているようでした。唯一、仲が良かったのはオス猫のチャトラン(前述のトラ猫)だけでした。

動物はあっという間に年をとってしまいます。モコちゃんも例外なく、大きな体がだんだん小さくなり、美しかった毛皮がショレショレになってきて、とっても小さなおばあちゃん猫になりました。それでも気が強くて、チャトランとだけ仲良くしていました。

ある雨が降った翌日のことでした。家族で買い物から帰ってくると、玄関の真ん前に小さなモコちゃんがうずくまっていました。彼女は今まで家の中に入ったことはなく、母からごはんをもらって、家の庭をテリトリーにしていました。だから、そんな彼女を見た母親は「どうしたのかしら?」と驚きました。「具合でも悪いのかしら?」雨が降って、泥水で汚れたモコちゃんは、いつもよりうんと小さく見えました。

「とにかく、お風呂に入れて暖かくしてあげたら?」と戸惑う母を促し、いったん、家の中に入れることにしました。手早くお風呂に入れて、タオルでくるんで、体温を保つように暖かくしました。1月の寒い冬の日のことでした。

めずらしく写真に写ってくれたモコちゃん



2012/02/07

チャトランと私(4)

子供のうちに片目になったチャトランは、少し高い場所から飛び降りるときに失敗することがありました。左右のバランスがとりにくかっただろう、と思います。「猫なのに、かわいそう。」とそのときは思っていました。けれど、本人はまったく気にする様子もなく、ずっこけた着地の態勢からそそくさと歩いていきました。

せっかく残った片目が、ケンカのせいで腫れて、「やっと見える」くらいしか開かなくなったとき、「これはマズイな。」と思いました。オスはなわばり争いの喧嘩があるし、目が見えにくいと、若い元気な猫になわばりをとられてしまうからです。「夜は必ず帰ってきなさいね。」と言い含めても、外に置いた箱にいないことがよくありました。そういうときは「怪我をして、帰れないんじゃないか。」と心配しました。

今でも気がかりなのは、チャトランが「自分が家族から嫌われて家に入れなくなった」と思っていなかったかどうかです。青年期になって家を出るようになったころから、マーキングをするようになったのでチャトランは外猫として飼われることになりました。本当なら避妊手術をして、一生家の中で飼えば良かったのかもしれませんが、避妊手術に不賛成だった家族は彼に手術をしませんでした。これは良い・悪いではなく、飼い主の価値観なのでなかなか難しいところです。

柴犬ハチの散歩にでかけると、チャトランはいつも一緒についてきました。車の通る道を歩くので、「危ないからお帰り!」と何度もいいましたが、つかず離れずの距離で、ハチと私の後をチョロチョロ歩いてきたことを思い出します。きっと、ハチのことを「大きな猫」と思っていたのでしょうか。自分も仲間に入りたかったのでしょう。

動物と一緒に住んでいると、「心が通じたのかな?」と思うようなことが多々あります。それぞれは小さなことですが、そして、偶然かもしれないのですが、どうしてもそう思えるときがあります。

チャトランがきちんとトイレをしてくれたとき。
チャトランが布団の足元から移動したとき。
チャトランがチビを優しくむかえたとき。

彼はいったい何を思っていたのでしょうか。

チャトランは天使になった今でも、ときどき私の元を訪れてくれます。そういうときは、夜、布団の足元に近づいてくる重さを感じます。やわらかい毛布をフミフミしてから、やがて、私の足元に丸くなる重みを感じます。「ああ、来たんだな。」と思うと同時に、「あのとき、本当は一緒に寝たかったんだなあ。」と生きていた1年前のことを思い出します。

ペットが亡くなると「もっと優しくしてあげればよかった」とか「もっと言うことを聞いてあげればよかった」などと、飼い主として自分を責めることがあります。私も「あのとき、重くても我慢して、一緒に寝てあげればよかった」と思ったことがあります。でも、今おもうのは、あのとき我慢していたとしても、きっとチャトランはそれを見抜いただろう、ということです。

ペットを1度迎え入れたなら、本当に愛しているよ、ということを何度も何度も伝えてあげることはとても大事なことです。何度伝えても、多すぎるということはありません。(人間もそうですね)そして、最後の瞬間まで看取ってあげる勇気と意思が必要だと思います。

本日のメッセージ

【自己紹介】 中村久美恵 BBSH2011年卒業BHSプラクティショナー💖動物が大好きなエネルギーヒーラーです💛犬2匹猫30匹をお看取りした経験から、ペットロスのヒーリングサポートをしています。こんにちは、中村久美恵です^^ 今日もあなたが目覚めるメッセージ♡お届けします。 ...