2012/05/20

カラスとかちがらす(4)

ヒナのお墓を作ってから数日。いつのまにかカラスのお見合いシーズンは終わったらしく、辺りは再び静かになりました。かちがらす夫婦の巣はそのままありますが、もうカラスはいません。そのうち、電力会社の人たちが巣を撤去することでしょう。

さらにその数日後。この原っぱの草取りの日がやってきました。ご近所さんの誰かが草刈り機で事前に草をきれいに刈ってくれていたので、当日はごみ袋に枯れ草をつめこむだけとなりました。

人がいなくなった後のきれいになった芝生に、小さなすずめたちが降りてきました。きっと、この春に巣だった若いすずめなのでしょう、まだ体つきが小さいようです。そして、若いかちがらす夫婦も降りてきました。すずめはとても怖がりな鳥なので、すずめのいる場所なら安全なのだろう、ということで降りてきたのかもしれません。

かちがらすは一度夫婦になると一生をともに添い遂げます。少し小さめの、若いカップルを見て、「2人で安全な場所を見つけなさいね。」と心の中で話しかけました。かちがらすは行ったり来たりしながら、芝生をつついていました。

動物は、いつか必ず死にます。それは、ヒナのようにどうしようもない状況で若い命を落とすのかもしれないし、寿命を全うしてのことかもしれません。ごはんをもらえない猫でも、散歩に連れていってもらえない犬でも、自殺することはありません。だからこそ、ペットを飼ったなら、私たち人間が食べ物を与え、健康に気を遣い、幸せにする義務があります。

人間に飼われても、不幸なペットはたくさんいます。飼養拒否されて、ろくにごはんをもらえない、体は全身ダニでびっしり、散歩には行かない、小屋の周りに用を足しても掃除してもらえないまま、ブラシなどかけてもらったことがないという犬を私は知っています。飼養拒否はりっぱな虐待なのですが、当の飼い主たちはいっこうにそうとは思っていないようです。

動物を飼うには「余裕」と「知識」が必要です。時間的余裕、金銭的余裕、心の余裕がないと、ペットにつらく当たってしまいます。知識がないと、ペットを飼っても病気にしてしまうかもしれません。それどころか、具合の悪いことに気づかないまま数年が経過、ということさえありえます。

これからペットを飼おうと思っていらっしゃる方には、必要に応じて、近所の人に応援を頼む(つまり、頼めるようなご近所付き合いを普段からしておく)、評判の良いペットシッターを事前に探しておくなど、自分が「余裕をもって、自分の生活ができる」ようにしておくことをお勧めします。ペットシッターはとてもありがたいのですが、自宅の鍵を渡すことに抵抗がある人々はまだまだ多くいることでしょう。特に都会で女性の一人暮らしとなると、ちょっと考えてしまいますよね。だからこそ、ご近所つきあい、友人つきあいが功を奏します。動物病院や病気の治療法なども同様ですが、実際に経験した人たちからの情報はとても役に立つものです。ぜひ、普段からの人間関係をペット目線で見直してみてはいかがでしょうか。



2012/05/18

カラスとかちがらす(3)

愛犬の美しい眼差しで我に返った私は、あらためて、深呼吸を1つしました。

しょうがないのだ。これが自然だから。でも、自然は残酷だな。
カラスも山に食べ物がないのだ。しょうがないんだよな。
でも、悔しいな。あと少しで、飛び立てたのに。
あと、少しだったのに・・・。

あと少しで、「完璧」だったのでした。予定通りに行くはずだった、のです。

人は誰でも、「予定通りに行く」ことが好きですよね。問題なくスムーズにいくと、安心していられます。特に命がかかわっているならば、それは非常に重要なこととなります。でも、ここで大事なのは、予定通りにいって嬉しいのは、かちがらすの親と私(!)で、カラスにとっては違ったということです。立場が変われば、すべてが変わります。

かちがらす夫婦からヒナを奪ったカラスたちは、私からえさを奪われました。誰かにしたことが、自分たちに返ってきました。これを宇宙の法則というのでしょうか・・・。

翌日、同じ場所を見てみました。かちがらすの巣には数羽のカラスが陣取り、出たり入ったりしていました。自分たちの産卵に使うつもりでしょうか。

原っぱには乾燥した緑のお布団が残っていました。私はビニール袋を持参して、お布団ごとヒナを持ち帰りました。そして、裏庭のあじさいのそばに、ヒナを埋めました。「ここならね、カラスに見つからないからね。あじさいで隠れるから。お父さんとお母さんの巣からは少し遠いけどね、ごめんね。」そう言って、うず高く土を盛って、犬がその場所を掘らないようにしました。

心なしか、いつもより多くのカラスが自宅を監視しているように感じました。実際には、数日前から非常に多くのカラスが近所に来ていたので、私の思い過ごしでしょう。ご近所の方いわく、「最近多いでしょう?この時期はカラスのお見合いなのよ。」ということでした。それでも、いつもは静かな辺りにカラスの鳴き声がこだまするのは少し気味の悪いものでした。

カラスはなぜ、草をかけたヒナに、1羽も近よらなかったのでしょうか。私は「しつこく、またやってくるかも。」と予想したのです。彼らは目で獲物を探すことが知られています。ヒナが急に消えてしまった、と理解したのでしょうか・・・。



きっかけを思い出すこと

そもそも、これを始めたのはどうしてだっけ?
どんないきさつやきっかけがあったのだっけ?

こんな風に、ときどき思い出してみると、思わず初心に帰れます。そして、すっかり忘れていた出来事を思い出したりもします。瞑想はそれを楽にできるよう、助けてくれます。何かの雑誌で読みましたが、最近は企業の経営者の間でも瞑想が流行っているらしいですね。誰にも頼らず、未来を左右する決断を強いられる経営者には鋭い直感を磨く必要があるということでしょうか。

さて、私は読むこと・書くことが好きなのですが、あまりに当たり前すぎて、つい最近まで自分がそれらを「好き」なのだとは夢にも思っていませんでした。日常でブログを書いたり、FacebookやTwitterに書き込みをしたり、ホームページを作成したり、自分にとってはあまりに当たり前なことなわけです。そんなときに、第三者である友人の意見に驚かされました。

「紅美ちゃんは文章書くの上手だから、いいよね~。」
「ブログなんて、書くのが好きでないと続かないよ~!」

私って、文章書くのが上手なの?!
普通は続かないものなの?!

ブログは2004年くらいから始めました。途中、使用していたブログの会社経営が変わったり、「ええーい、もう、こんな古い自分とはおさらばだ!」となぜか思い立ったりして削除してしまったものもあります。けれど、ずっと続いているのは書くということ。ポエムや、日常の出来事、または瞑想で見たお話だったりと様々な内容ではありますが、書くということ自体、なぜか「止められない」のです。今朝の瞑想で、その原点を思い出しました。

小さな女の子が図書館の本棚と本棚の間に座りこんで本を読んでいます。小さいときの私です。ギリシャ神話、ローマ神話が大好きで、全巻読破しました。読むことが楽しいと心から思っていた頃です。それから、祖父が入院した病院へ両親に連れられてお見舞いに行ったシーンになりました。薄暗い廊下に、大人用のスリッパを履いた私の足音がパターン、パターン、と響いていたのがちょっと怖かったのを思い出します。そしてそれを作文に書いたのでした。

作文は見事に何とか賞をいただき、文集に記載されたのでした。私が初めて、自分のクリエイトした作品を他人に認めてもらった瞬間でした。しかし、そのときは周囲から褒められたものの、自分としては経験したこと、心に残ったことを素直に書いただけなので、なぜ褒められるのかがわかりませんでした。

瞑想がすごいのは、ここで終わらないところです。現在の大人の自分がみた視点から、この子供のころの出来事を感じることができるのです。実際、わたしは何とか賞をいただいた時の小さな自分を再度感じました。大人のまま子供の心を感じてわかったことは、実は、この時の私は本当は、とてもとても嬉しかったのだ、ということです。けれど、あまり喜ぶと周りのお友達から冷たくされるかもしれない、仲間はずれになるかもしれない、だから目立たないようにしよう。そういう防衛本能から、思いきり喜ぶことを止めてしまったのです。

目立つ事への恐怖というのは、団結や団体を重んじる日本人には多いのかもしれません。欧米のような個人主義の国では、また違うのでしょうね。

あの時の自分は、本当は、こんなに嬉しかったのだ。
それがわかったとき、なぜ自分が書くことを止めないのかがわかりました。そうして、それを続けてよいのだ、と快く自分を許すことができました。1日の中で、自分に「書く」という時間を与えてあげる。それは自分の創造性を発揮させて表に出してあげることにもなります。

ルイーズ・ヘイの本によると、女性の場合、創造性は内臓でいうと卵巣とも関係があります。(まさに、赤ちゃんを創造する臓器ですね!)現代女性は卵巣に問題を抱えている人が多いと思いますが、まさにこれではないでしょうか。

自分の人生において、創造性を発揮したいもの、ことを再度思い出す。大事なことです。





私たちの究極の人生の目的

【自己紹介】 中村久美恵 BBSH2011年卒業BHSプラクティショナー💖私たちの悩みはどんなものでも、自分の内側を見れば必ず解決していきます✨ ****** こんにちは、中村久美恵です^^  暑かったり寒かったり、お天気が一日のうちに目まぐるしく変わり、昼と夜の気温差が15度...