なぜ、私はこんなに悲しいのか。
マロンがいないからだ。
彼がいれば、幸せなのか?
・・・。
私の幸せは彼に左右されているのか?
・・・。
私の幸せは、外部の何かに左右されるのか?
・・・。
ふと、この質問が頭によぎったその瞬間、私のハートが重くなり、長い長い間置き去りにしてきた何かを取り戻した。それは強さ、権威、パワー、私自身だった。
私は彼を許していなかった。
自分が悲しむことで、彼を許していなかった。
私がこんなに悲しいのは、マロンがいないからだ、なぜいないのだ、と逝ってしまった彼を許していなかったのだ。
何ということ!
何ということ!
では、悲しみはエゴなのか?
あの時、逝くことを選んだのは彼なのか、それとも大いなる存在なのか?
これは聖なる計画の一部なのか、それとも私が撒いた種を刈り取ったのか?
残酷な宇宙の仕打ちと思っていた出来事は、いったい、何なのか?
思考が現実を創るなら、私はなぜ、こんなことを望んでしまったのか?
癒やしが手放すことなら、私はなぜ、いらないフロアランプではなく、よりによって愛するマロンを手放してしまったのか?
神が我々を創ったなら、我々も神であると言った人がいる。もしそうだとしたら、私からマロンを奪った神を許せない。
そして、神である私のことも許せない。
許しとは、踏みにじられたすみれの花が、自分を踏みにじった靴のかかとに放つ芳香である、とマーク・トウェインは言った。
私は、すみれの花になれるだろうか。
それとも、もう、すみれの花なのだろうか。