四七日(よなのか、4回目の7日間=28日目)を過ぎても、自分が生きている意味を探し、あの子が逝った理由を探し続けた。どうしても納得がいかなかった。
自分は何をすべきなのか、これからどう生きていけばいいのか。私のキャリアは、彼が人生の中心にいてこそ培われる予定のものだった。
なぜあの時だったのか。国道でふらふら歩いていたのを見つけてから3年だった。
なぜ私がお見取りをする最後の飼い主だったのか。
私は彼の治療方法や動物病院をどのようにして選択すべきだったのか。
誰も答えをくれない、決して答えが見つからない暗闇の中を、あてなくさまよっていた。答えはないと、どこかでわかっていた。けれど、そうせずにはいられなかった。そしてさまよいながら、理由や原因がまったくわからないことに対して、神への怒りを猛然と感じた。励ましてくれる友人やヒーラーや近所の人たちに対しての怒りもこれが発端だと気づいていた。
なぜ神様は私からマロンを奪ったのか?予定外に、こんなに早く。
私はそんなにダメな飼い主だったのか?
そんなにマロンにふさわしくない飼い主だったのか?
私はどうしたらよかったのか?
神様はニール・ドナルド・ウォルシュが「私はなぜ生きているのですか?」と質問したときに、こう言った。
「神として生きなさい。」
そして、同じ質問に、エックハルト・トールは言った。
「あなたは今のあなたという形になって存在している。それは私(神)があなたを通して私(神)自身を知ることが出来るからです。生きとし生ける物すべてを通して私(神)を知ることができるからです。」
私が泣いて悲しむから、神は「亡くした悲しみ」という感情を知ることができるのだ。
あの子がいなくなって初めてわかることがたくさんあった。
あの子の代わりは決していない。これからも決して現れない。どんなにほかの犬や猫達が可愛くても、彼の代わりなど存在しない。あの子は唯一無二の存在だったのだ。彼が私の中でどれだけ大きな位置を占めていたことか。
お金を何百億円積んでも、あの子は戻らない。お金なんてその程度のものなのだ。
広い庭の家があっても、あの子がいなければ意味がない。
彼がいなければ高原のペットペンションへ行く計画も無意味なもの。
どうしてこんなことが、彼が生きている間にはわかっていなかったのだろう?
なぜ、彼がまだまだ生きると思っていたのだろう?
なぜ、彼を「まだ六歳」と思っていたのだろう?多くの人が言った、「まあ、まだ六歳だったの。若かったのにね。」
私もそう思っていた。おかしなものだ。誰だって、今日死ぬかもしれないのに。
朝ごはんを一緒に食べた人が、昼には棺桶に入っていたって何もおかしくない。それが「普通にありえること」なのに、なぜ自分の世界ではそんなことは起こらないと信じて、人は毎日過ごしているのだろう?
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