2015/02/08

小さな存在

人間とは、何て小さな存在なんだろう。
愛する存在を助けることさえできない。

助けられない。
治せない。
変えることもできない。

なのに、なぜ誠心誠意、文字通り全力で
誰かを助けようとするのだろう。

ヒーラーは、クライアントを助けることなどできないのだ。
助けられない。
治せない。
変えることもできない。

なのに、なぜ誠心誠意、さらには期待さえ抱かずに
クライアントのために全力を尽くすのだろう。

ヒーラーとは、何てかけがえのない存在なのだろう。

何とか助けたい、などと思わずに、
例え相手が肉体を離れることを選んだとしても、
それが最善なのだと
相手のために喜べる存在。

それでも、人として、両極端な思いは同時に存在する。

甘いものと苦いもの。
白と黒。
自分を責める声とよくやったと褒める声。

これらの両方を認めることができるからこそ、
辛く悲しい別れを体験しながら、
今までお疲れ様、と相手を思いやる気持ちが
同時に存在する。

ヒーラーである前に、人間とは、
限りなく小さな存在で、
短い一生において大したことはできない。

それでも、その一生は無意味ではない。

私はマロンを救うことは出来なかったし、
変えることもできなかった。

けれど、その悲しみを細胞の一つ一つで体験すると
(良い意味で)自分が大した存在ではない、と
認めることができるようになった。

謙虚さを持ちながらも、決してあきらめない強さを
同時に持つことができるようになった。

相手が変わることを期待せず、
ただ自分が正しいと信じることを
ひたすらやり遂げる。

それができれば、短い一生でも
十分ではないか。








2014/12/18

もし会えたら



マロンが亡くなって3か月が経った。
毎月、23日を前にすると心が痛む。
同時に、自分のエゴについて感じずにはいられない。

何もしたくなくて、ある日、
DVDを借りてみた。

海外ドラマを見ているうちに、ふと、
英語の勉強になるなぁ、と気づく。

イギリス英語もアメリカ英語も、
ドラマから日常会話を知ることができる。

Sherlockはとてもよくできたドラマだった。
世界中で人気のわけがわかる。

見逃していた映画もたくさん見た。
その都度、映画を通して
心に響くメッセージが届いた。

映画に使われていた音楽も
気に入ったものをダウンロードした。

ああ、自分は芸術が好きだったのだ、と
改めて思い出す。

映画を見たり、
音楽を聴いたり、
舞台を鑑賞したり、
写真を撮ったり。

誰かの評価を気にせずに、
ただ楽しむことを忘れていたことに
気づかされる。

リラックスしているつもりで、
何時になったら何をしなくちゃ、と
予定を立てている自分に気づく。

「保証は何もない」。
スーパーバイザーが言ってくれた言葉だ。

夫婦関係も、
親子関係も、
恋人同士も、
友人関係も、
コンパニオン・アニマルも。

幸せが永遠に続くという保証は
どこにも、何もない。

なのに、人は「関係」を求め続ける。
なんて勇気がある動物なんだろう。

マロンを亡くしてからは、
人と関わるのはとても辛かった。

スーパーバイザーは
「たっぷり時間を取りなさい」、と
勧めてくれた。

そして、好きな人たちと距離を置くことは、
お互いを守るためだった。

悲嘆を奥底に抱えている人を
100%そのままの状態で
受け入れられる人は限られる。
悲嘆は瞬間的に伝染するからだ。

その瞬間、人はこう言う。
「元気をだしてね。」
「だいじょうぶ、乗り越えられるから。」

けれど、自分で悲劇を乗り越えた人たちは違う。
何も言わない。
黙って、ただ、そばにいて、
そして共感してくれる。

縁があって家に来た
4匹の猫たちは
決してマロンの代わりではない。
マロンの代わりは、どこにもいない。

それでも、時々涙する私のそばにきて
頬を流れる涙に興味を示して
「だいじょうぶ?」と心配してくれる。

マロンはこの子たちを
決していじめたりしなかった。
生きていたら、きっと、
迷惑そうな顔をしながらも
優しく接していただろう。

マロン、会ったら、その
ふかふかの体を
しっかりと抱きしめたい。






2014/11/26

許し




なぜ、私はこんなに悲しいのか。
マロンがいないからだ。

彼がいれば、幸せなのか?
・・・。

私の幸せは彼に左右されているのか?
・・・。

私の幸せは、外部の何かに左右されるのか?
・・・。

ふと、この質問が頭によぎったその瞬間、私のハートが重くなり、長い長い間置き去りにしてきた何かを取り戻した。それは強さ、権威、パワー、私自身だった。

私は彼を許していなかった。
自分が悲しむことで、彼を許していなかった。
私がこんなに悲しいのは、マロンがいないからだ、なぜいないのだ、と逝ってしまった彼を許していなかったのだ。

何ということ!
何ということ!

では、悲しみはエゴなのか?

あの時、逝くことを選んだのは彼なのか、それとも大いなる存在なのか?

これは聖なる計画の一部なのか、それとも私が撒いた種を刈り取ったのか?

残酷な宇宙の仕打ちと思っていた出来事は、いったい、何なのか?

思考が現実を創るなら、私はなぜ、こんなことを望んでしまったのか?

癒やしが手放すことなら、私はなぜ、いらないフロアランプではなく、よりによって愛するマロンを手放してしまったのか?

神が我々を創ったなら、我々も神であると言った人がいる。もしそうだとしたら、私からマロンを奪った神を許せない。
そして、神である私のことも許せない。

許しとは、踏みにじられたすみれの花が、自分を踏みにじった靴のかかとに放つ芳香である、とマーク・トウェインは言った。

私は、すみれの花になれるだろうか。
それとも、もう、すみれの花なのだろうか。






私たちの究極の人生の目的

【自己紹介】 中村久美恵 BBSH2011年卒業BHSプラクティショナー💖私たちの悩みはどんなものでも、自分の内側を見れば必ず解決していきます✨ ****** こんにちは、中村久美恵です^^  暑かったり寒かったり、お天気が一日のうちに目まぐるしく変わり、昼と夜の気温差が15度...