2012/04/27

つながっていること

犬と一緒に散歩すると、ときどき、不思議なことを体験します。
それは人によっては「偶然」でかたづけてしまいがちなことなのですが。。。

私の犬と散歩へ出発したときのこと。玄関前を数歩歩いたところでとまってしまい、動かなくなってしまいました。どうしたの?と声をかけてみても、「行かない」という意志の強い目で私を見るだけ。前の細い道路を見渡して、苦手な犬がいるのかと確認しても、誰もいません。

しばらく待っていると、遠くから足音が聞こえてきました。それは近所に住む年配の女性で、以前、小型犬を飼っていたのよ、と私に話してくれた人でした。私の犬はしっぽを振って、彼女を迎えました。「あら~、どこに行くの?」と優しく声をかけて、撫でてくれた彼女は一人暮らし。犬は好きだけれど、今の家に引っ越してからはずっと一人だということでした。

「いま、動かなくて、どうしたの?って言ってたところなんですよ。」と話すと、彼女は「あら、私を待っててくれたのかしらねえ?」と笑顔になりました。そして彼女が立ち去ると、犬はいつものように、いつもの方向へとスタスタ歩き出したのです。私は、本当に、犬は彼女を待っていたのだと思いました。

またある時は、こんなことがありました。その日は雨で、犬にレインコートを着せて歩いていました。ところが、大きな道路の近くまで来ると、お店の屋根の下に入って動かなくなってしまいました。雨はちょうど小降り。散歩で歩くなら、いまがチャンスです。「さあ、早く行こう。早く行って、早く帰ってこよう。今日は結構雨が降るってよ。」と私は犬に話しかけました。それなのに犬は、伏せの(スフィンクスみたいな)ポーズでペロペロ、前足を舐めて時間つぶしをしています。

レインコートが嫌なのかな?(ガサガサするし、正直歩きにくそう)と思って、いったん、脱がせてみました。それでも歩きません。そんなことは初めてでした。雨だから嫌なのかな?(でも、嫌そうな顔はしていない)散歩はしたいはず。。。困った私は、もう一度レインコートを着せて、何とか歩いてもらおうとしました。でも、ダメでした。

「理由はわからないけれど、とにかく、嫌なのね。じゃあ、とりあえずいったん、帰ろうか。」そう言って、犬を抱きかかえて帰ることにしました。幸い、家から3分ほどの場所だったので、そう大変なことではないと思ったからです。

ところが!犬を抱えて歩き出した途端、ザーーーーー!!と雨がどしゃぶりに。。。「ええ?」と思わず声に出して驚きながらも、犬が出来るだけ濡れないようにと一生懸命歩きました。ちなみに、3分の道のりも12kgの犬を抱えていると遠く感じます。(笑)

犬はもうすぐ雨が本降りになる、ということがわかっていて、時間をつぶしていたのでしょう。いつも抱かれるのは嫌がるのに、この時は素直に力を抜いていてくれました。この経験で、私は犬と自然との深いつながりを感じずにはいられませんでした。同時に、何かに対して「良い、嫌」というジャッジメントを下しているのは人間なのだ、ということにも気づかされました。嫌で止まるわけではない、理由があって止まるだけのことだ、ということです。

犬を見くびってはいけない、と思います。彼らは人間が思う以上に、自然界やエネルギーと色んなつながりを持っていて、それを当たり前に生きているからです。私たちが彼らに追いつくには、あとどれくらいかかるのでしょう。。。




2012/04/26

言葉に出す

言葉に出して、何かを伝える。一見、当たり前ですよね。そう、この「当たり前」の部分に鍵が隠されています。当たり前だから、言葉に出さずともすむ、ということなのです。

家族を例にとってみましょう。家族の誰かが、あなたを車に乗せて、ショッピングセンターに連れて行ってくれたとしましょう。「ありがとう」と言いますか?それとも黙ったまま、車を降りますか?良い、悪い、という話をしたいわけではありません。

「家族なんだから、当然じゃない?わざわざ口に出して言うこと?」というご意見もあるでしょう。または「親しき仲にも礼儀あり。たとえ家族であっても、きちんと感謝の気持ちを表現すべき。」というご意見もあるでしょう。

当たり前のことに感謝する。3.11の震災後、よく目にした言葉です。何でもない今日、家族に感謝していることを伝えることは尊いことです。被災地で働いていたボランティアの男性に、年老いた女性が言ったそうです、「あなたたちは本当によくやってくれる。でもね、モノじゃないのよ。」(http://blog.goo.ne.jp/cheapdust/e/768944be6fa5d0cbc1c053f46b8e8978)この女性は災害当日の朝、喧嘩してしまった夫にいままで「愛している」と伝えていなかったことを悔やんでいました。その日に限って喧嘩してしまったのだそうです。

船井幸雄さんがツイッターで(船井幸雄bot)、人は一人では何かを成し遂げることはできない、誰かの助けが必要になるということがわかったなら、自然と周囲の人を大切にするだろう、と書いていました。ああ、そうだなあ、と思うと同時に、それにはまず、「自分にはできないことがある」と認める勇気が必要だとも思いました。

自分に出来ないことがある、と認めることは、助けを受け取る準備ができたということです。大げさなことだけではなく、単に今はできない、今回は無理、というものも含みます。

自分と周囲の人たちとの人間関係は、「自分だけでは出来ない。でも、やりたいことがある。そのためには。。。」と考えると、自然と感謝に満ち溢れたものになるでしょう。あなたがそれで損をすることはまず、ないはずです。

私たちにできること

モコちゃんとの思い出を書いてから、だいぶ時間が経ってしまいました。ここに、改めてモコちゃんとの思い出を書くことで思い出したことも多く、書きながら悲しくなったり、懐かしくなったりしました。モコちゃんの最期を書いた後は胸の奥が重くなって、なにか小さな鉄のボールがあるような感じでした。いまも、それは続いています。

過去にさかのぼると、もっと可愛がっておけば、もっと優しくしておけば、もっと一緒の時間を過ごしておけば、といまも私の中でスーパーエゴが囁きます。この声を感じるたびに、胸の重みを感じて、どうしようもない日々を送りました。

今日、ここに書いているのは、これら動物と私の関係をあらためて1冊の本にまとめようと思い立ったからです。実はだいぶ前からアイデアとして浮かんでいたのですが、書くたびに辛い思い出や、はがゆい気持ちを何度も味わうので、なかなか決心がつかなかったのです。

私がBBSHを卒業するにあたって書いた卒論は「ペットロスと4次元コンタクト」というタイトルでした。当時は書くためのプロセスも多く、大波小波をやっとこさ乗り越えながら、先生方や同級生のサポートを受けて、必死で書きました。3回のドラフトを書きましたが、書くたびに内容が変わりました。ペットとのコミュニケーションというテーマは同じでしたが、毎回、書きたいことが変わって自分でもどうしたものか、わかりませんでした。

やがて、3.11の東北大震災が起こり、多くのペットと飼い主さんたちが津波にのまれてしまうという恐ろしい災害が起こりました。ペットロス、または飼い主がペットより先に亡くなることについては一切、論文には書いていませんでした。私は無意識に、一番見たくないものを避けていたのかもしれません。最終的に提出していったんOKはもらっていたものの、先生に「今回の地震を受けて、ペットロスについて書き足したい。」とお願いをし、再び内容を吟味して書き直すことにしました。「もう、OKをもらっているのに?」と言う同級生もいましたが、自分にとってはこれに触れなければ完結しないという思いでいっぱいでした。

今回、ここにチャトランとモコちゃんとの思い出を書くことで、自分が多くの人々に知ってもらいたいことは「小さい命を大切にしよう。」ということです。「小さい命って、どこまでのことを言っているの?」という方もいるでしょう。みつばちも入るのか、ミミズはどうなんだ、と言えばキリがないかもしれません。でも、小さな命が生きられる世界なら、大きな私たち人間も生きていけるのではないでしょうか。みつばちは現在、世界中で激減していることが数年前から伝えられています。ミミズは農家の方であれば、肥えた土を作ってくれる大事な生き物でしょう。農薬や除草剤を使うのは簡単ですが、土が元の状態に戻るまでは長い年月がかかると言われています。アメリカの絵本画家であり、見事なホームガーデンで有名なターシャ・チューダーは、あの庭を作るために、土壌の改良に10年かかった、とTV番組で話していました。

災害のときには、動物よりも人間が優先的に助けられます。でも、ぺットを飼っていた人は本当はペットと一緒に避難所へ逃げたかったのではないでしょうか。動物の受け入れがなかったために、災害後、自分の犬を抱きかかえて暖をとり、車の中で1か月非難生活を送った人がいる、とインターネットのニュースで見ました。飼い主さんも犬も、どんなに心細かったことでしょう。避難所にいないがために、食料も水も、分けてもらえないのです。最近、茨城県がペットと一緒に避難できるように地域防災計画に変更を加えたというニュースがありました。こういった変更で精神的にも心理的にも安心感を得られる人は多いと思います。

「人の非難が完了してないのに、ペットなんて。」とおっしゃる方もいることでしょう。けれど、忘れないでください、飼い主にとってペットは「家族」なのです。自分のこども同然なのです。災害直前、いつも犬と行く散歩コースに行こうとしたら、なぜか犬が必死に山の方へと進みだし、それについていった飼い主が助かった、という記事がありました。年老いて、足も悪いその犬のリードを引っ張る強さに飼い主は驚いた、と語っていました。動物にはこういった自然の変化を予測する能力があると思います。動物のおかげで受ける恩恵は、正直なところ、計り知れないものがあるのではないでしょうか。

中国の闇ペット市場では、犬を不自然な色に毛染めして、輸入されて体力が弱っている犬にはドーピングが当たり前、というニュースもあります。元気で美しい犬は高く売れるからです。私はここに、人間としての倫理観の違いは、文化の違いを生む、ということを感じています。良い、悪いということでなく、国民性による「お金を稼ぐことに対する罪悪感の違い」も大きいと思います。

一人一人が変わらなければ世界は変わらないのですが、それはそんなに遠く見えない道のりでもないように感じます。日本は現在、年間57億円ほどの税金を使って犬猫の殺処分を実行しています。けれど、犬猫を捨てる人がいなくなれば、責任をもって最期の時まで家族として面倒を見る人が増えれば、この57億円は別のことに使えるのです。

私たちにできることは、一つ一つは小さなことかもしれません。それでも、何もしなければゼロのままです。何もしないよりは、ずっとましだと思うのです。例えば、小さいことですが、私は自分が犬の散歩中に、こどもが寄ってきて触らせてほしい、と言ったら快諾することにしています。様子を見ながら、犬へのあいさつの仕方、犬が怖がらない触り方を教えて、ゆっくりと触ってもらいます。これは、私の犬がこどもを好きだから出来ることで、犬によってはこどもが苦手な犬もいるので、飼い主さんはそれを見きわめることが必要になります。

なぜ、これを始めたかというと、ある時、小学生の男の子2人組が私に言ったのです、「ぼくは犬きらい。」「僕も!」なぜかと尋ねると、小さい時、犬に追いかけられたことがあるからだと一人が言いました。もう一人は学校帰りに通る家の犬が、いつも大声で自分に吠えるから、その前を走って通らなければならないからだ、と言いました。こういう経験から犬をきらいな大人が増えていくのは悲しいことです。小さい時から、犬の行動学を正しく教えてくれる大人が周りにいれば、こどもたちはもっと犬のことを理解できるのです。大人はそのチャンスを与えることができます。

たくさんの人たちが、もっと動物の行動学をしって、彼らの発するメッセージを正しく理解していくことは、より良いペットとのコミュニケーションへとつながっていきます。言葉を話さない彼らのことがもっとわかれば、もっと大事にしたくなるでしょう。英国は18世紀の産業革命で素晴らしい帝国を築きましたが、一方ではひどい動物の虐待が続けられていました。でも、今は世界で一番、動物の保護が進んでいるといわれる先進国へと変化しました。日本もいずれは、そうなってほしいと願っています。







本日のメッセージ

【自己紹介】 中村久美恵 BBSH2011年卒業BHSプラクティショナー💖動物が大好きなエネルギーヒーラーです💛犬2匹猫30匹をお看取りした経験から、ペットロスのヒーリングサポートをしています。こんにちは、中村久美恵です^^ 今日もあなたが目覚めるメッセージ♡お届けします。 ...